20210620~20210704 山陰・山陽・紀伊半島放浪記 その1

使用カメラ

使用機材

カラー

イカIIIC フイルム:富士フイルム業務用100

モノクロ

Konica II フイルム:FomaPan100

 

6月20日朝、家族には切符の有効期間の次の日7月3日までには帰ると伝えた。泊まる場所も行く場所も決めていない。途中下車しながらその都度計画を立てて回る。そのため持ち物にはJTB小さな時刻表。フルサイズの時刻表をほぼそのまま小さくしただけなので、情報量は変わらない。これがあれば列車の時刻だけではなく、万一特急を利用する際の料金も知ることができる。また駅弁の情報や簡単ながら私鉄とバスの時刻もわかるので重宝する。時刻表はJTB派とJR時刻表派がいるが私はJTB派。わからない人にはどっちも同じと感じるかもしれないが、ページのデザインや路線の掲載順が異なり、なれない方は使いにくく感じる。なれると感覚でこの路線はこの辺りとわかるのだ。だが路線の並びが異なると自分の思ったところに目的の路線がない。そんなときのイライラはMAXである。3日目までに乗る列車は大方決まっている。ホテルも確保済みである。その先の予定は決まっていない。

 

6月20日

東海道新幹線 3A のぞみ3号 東京6:15→京都8:25

朝食は駅弁チキン弁当。このお弁当は上皇陛下が東海道新幹線を利用なされる際、好んで食べるものだそうだ。唐揚げとチキンライスというシンプルなお弁当。これがまたいい。駅弁を買い発車時刻まであと10分。時間があるから拝みに行く。

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本人曰く「似とらん」とのこと

十河信二国鉄総裁を2期8年務めた人。そして新幹線を作るために奔走した人。就任時71歳。鉄道博物館から引っ張り出してきた老機関車と揶揄されたが。その老機関車が爆走したおかげで新幹線ができた。国会の予算申請をオーバーする前提で低く出し、同時に世界銀行に融資をしてもらい、建設を国際公約にすることにより予算オーバーでも国からお金を出させた。さすがに予算オーバーが大問題になり2期目の任期満了で国鉄を去ることになるが新幹線は大成功。世界中に高速列車が誕生した。

新幹線は定刻で発車、京都にも定刻で到着した。

 

山陰本線 239M 京都8:40→園部9:25

山陰本線 1127M 園部9:46→福知山11:03

 

この旅行のもとになったのは3日程度で山陰本線を乗り通す旅行の計画だった。3連休もしくは土日に有給1日使っての計画だった。仕事辞めるにあたり時間ができたので帰りの山陽本線も途中下車しながら帰ってくる計画になり、そのあとせっかくだから紀勢本線も入れてしまった。さて山陰本線を乗り通そうと思ったのは動画サイトで国鉄時代の山陰本線の夜行普通列車「山陰号」の車内放送を見つけたから。それで京都から出雲まで行こうと思いどうせなら乗り通そうと思った。山陰号の時代と異なり景勝地保津峡は高架とトンネルで通過。最も山陰号は夜なので見れないのだけれども。

 

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園部

園部までは221系・園部からは223系とJRになってからの車両。座席はいいし揺れない。山陰号のディーゼル機関車+旧型客車とは違う。トイレも垂れ流しじゃないしドアは自動だ。あっちは夜だけどこっちはお昼。でもここを山陰号を走ったと思うと感慨深いものがあった。

 

山陰本線 431M 福知山11:08豊岡12:31

山陰本線 173D 豊岡13:02城崎温泉13:16

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福知山からは国鉄

福知山から国鉄型の車両。国鉄型は武骨で不器用な親父の印象が強い。全国で使うがゆえに汎用性や整備性、予算など複雑に絡んで器用貧乏になってしまった印象。長年にわたり作った車両も多くあるので見ためも古臭くなってしまっている。でもこれが良い。

城崎温泉ではお昼を取った。足湯でもと思ったが感染防止のため休止中だった。 

 

山陰本線 175D 城崎温泉14:12餘部14:56

餘部にはかつて大きな鉄橋があった。明治に作られた立派なもの。だけど海岸沿いに建てられたこの鉄橋はさび対策が大変だった。また線路の下が空いている状況で柵も低いので強風にものすごく弱かった。強風運休の指示が間に合わず列車が転落し工場に直撃し車掌と工場の人が亡くなるという事故もあった。架け替えることになった。明治のころにはできなかったコンクリートの橋に。

 

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餘部橋梁

こうして架け替えられた橋は風に強く強風での運休が大幅に減った。役目を終えた鉄橋は一部撤去された。でも鉄橋は地元のシンボル。一部は地元に残された。また残りの部分は博物館や研究所へ行った。強度を研究するためだ。仕事で鉄道総研に行ったものを見たときは感動した。先輩も担当(事務)の方もこの鉄橋のなれの果ての何がすごいのかわからなかったようで説明したら理解してくれた。かつて鉄橋のころ2回ここに来た。1回目は忘れもしない悪夢の超特割青春号で。工事が始まるちょっと前のことである。2回目は新しい橋脚が立ち始めたころだ。鉄橋の騒音はすごく地元の人にとっては転落事故もあり負の遺産だったのだろうと思った。架け替えの時ちょっとしたフィーバーになり価値観は変わったのかもしれない。最終的に維持に手間がかかるのに一部が残った。エレベーターまでつけて。

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新旧を下からのぞき込む

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残された旧橋。遊歩道になっている。

鉄橋の下には小さいながら道の駅ができていた。ここで鉄橋の一部を使った文鎮を購入。あと10日以上旅行するのに2kg近い文鎮を買って後で後悔するのは内緒。

 

山陰本線 179D(浜坂から541D) 餘部17:04鳥取18:35

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キハ40。山陰本線のヌシ

もともと餘部には駅がなかった。鉄橋を渡り終えるとそれなりの勾配で蒸気機関車でここで止まってしまうと発車ができなくなってしまうからだ。なので餘部の住民は鉄橋を渡りトンネルを3つ超えて隣の鎧駅まで行って汽車に乗っていた。危険なので陳情を行い1959年にようやく駅ができた。ちょうどディーゼルが実用化されたころだ。山陰号は駅が小さなことと上下とも深夜だったため通過していた。

鳥取では駅の近く鳥取温泉の宿に宿泊。明日は面白いことをする。ゆっくり温泉に入りとっとと寝た。